2016年06月18日

大河ドラマの真田丸の録画を5話分をまとめてみた結果

しばらく忙しかったので、大河ドラマの真田丸を1ヶ月ぐらい見てなかったんですが、昨日ようやく時間が取れたので録画した5話分をまとめてみました。

真田丸第19話「恋路」
真田丸第20話「前兆」
真田丸第21話「戦端」
真田丸第22話「裁定」

と、見てきたのですが、第22話「裁定」にあれ?と思いましたね。

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 見てない人のために、第22話「裁定」のあらすじを説明すると、北条氏政が上洛するためにに出した交換条件は、沼田領を真田から取り上げて北条に渡すことなんですよ。もちろん真田は不服ですから拒否します。そこで両者の論戦がはじまります。沼田領の所有権を決める論争をはじめるわけです。

 北条からは板部岡江雪斎、真田の真田信繁が出て論戦をし、真田がほぼ勝利をつかみかけるのですが、そこに石田三成が裏から手を出して、わざと負けよという。沼田をあきらめて北条に渡してほしいと言います。理由は「戦争になるから」という理由です。

 いやいやそれは違うでしょう。
 戦争したくないのは秀吉の方であって、
 石田三成は、そこまで先を見てない。

 まぁその辺はどうでもいいとしても、昌幸は沼田城のそばにある名胡桃だけは真田家の先祖代々の墓があるから真田に残してほしいとウソの申し出をしたことになっています。これもちょっと困ったもんです。これは群馬県側からの視点ですが、名胡桃には本当に先祖代々の墓があったかもしれないんです。

 と言うか、私はあったと思っています。
 真田昌幸のおじいちゃんのお墓があったはずなんです。
 つまり、海野棟綱の墓です。

 海野棟綱の子供が真田幸隆(幸綱)。
 その子供が真田昌幸なんですよ。

 ではなぜ、幸隆(幸綱)は、海野氏ではなくて真田氏を名乗ったかと言うと、幸隆(幸綱)は、真田の婿養子になって真田一族を乗っ取っているからです。これは珍しいことではなくて、当時、盛んに行われたことなんです。例えば嬬恋村の鎌原氏は、真田氏から婿養子をもらって、真田一族になって真田家の家老になっているんです。つまり鎌原氏というのは真田氏とイコールなんです。

 これと同じことで、武田信玄も、地方の名族を滅ぼすと、その一族に自分の息子を婿養子にやります。具体的に言うと、海野氏を滅ぼした時に、自分の息子(次男)を海野氏の養子にしてしまいました。これが、海野信親です。武田信親ではなく、海野信親になっています。同じように諏訪氏を滅ぼした信玄は、息子を諏訪氏の養子にして諏訪勝頼(武田勝頼)にしています。

 つまり海野氏と諏訪氏を武田信玄が乗っ取っている。

 その後に真田幸隆が、武田信玄に仕えたわけですが、もう海野氏の跡取りに海野信親(武田信親)がいましたので、海野氏を名乗るわけにはいかないわけです。仕方なく真田氏を名乗り続けたわけですが、後に真田氏の方がビックネームになってしまったわけです。

 ではどうして、名胡桃城に海野棟綱の墓があったかもしれないかと言うと、この辺は上杉氏(山内上杉家)の領地というか勢力範囲だったんです。そこに海野棟綱が配置された可能性が高いんですね。どうしてそこに配置されたかというと、真田は、村上氏に滅ぼされた後も、鳥居峠から沼田に向かう街道を支配していたわけです。そこでの関所の収入が無視できないほどあったわけで、その収入で自分の軍団を養っていたわけです。だから上杉氏(山内上杉家)も一目置いていたわけです。

(逆にいうと、それに目をつけてヘッドハンティングしたのが武田信玄だったりする)

 確かに村上氏は、戦争には強かったたわけですが、街道を支配していたのは海野一族である真田の方なんですよね。しかも真田氏は、村上氏に奪われたはずの真田郷から完全に撤退してなかったのです。真田郷の人は、支配者の村上氏と、街道をおさえていた真田氏に税金を二重に支払っていた。

 海野棟綱は、志半ばで死んでしまったわけですが、その墓が名胡桃にあったとしても、不思議はないんですよ。だからこそ真田昌幸は、名胡桃だけは譲れなかったんだと思います。そもそも名胡桃よりも西側は、つまり吾妻の土地は、海野1族の土地なんです。北条に渡すわけにはいかないんですよ。

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 ここでちょっと解説がいるかもしれません。
 海野一族についての解説です。

 海野氏というのは、当時の教養ある武士たちにとっては、スーパースターなんです。鎌倉幕府の公式的な歴史書である吾妻鑑に出てくるスーパースターの1人が海野氏。ここは分からないと、なぜ真田昌幸が名胡桃にこだわったかがわかりません。

 室町時代の武士たちにとっての歴史本というのは、平家物語や吾妻鑑です。特に吾妻鑑はよく読まれました。吾妻鏡というのは、鎌倉時代に成立した日本の歴史書で、鎌倉幕府の初代将軍・源頼朝から第六代将軍・宗尊親王まで六代の将軍記という構成で鎌倉幕府についての歴史書なんです。

 その吾妻鏡に海野小太郎幸というスーパースターが、たびたび出てきます。鎌倉で一番の弓の名人であり、わずか十一歳の時に、主人である木曽の義仲の息子の命を守るために体を張ったことで有名な人間です。海野氏は、吾妻鑑にたびたび登場してきます。つまり、海野氏は、当時の武士団にとって憧れの存在だったわけです。

 その海野氏は蒙古襲来の時も大活躍していますし、足利尊氏が鎌倉幕府を滅ぼしたときも海野氏は、北条氏残党をかくまい、足利直義を敗走させ鎌倉を一時的に回復したこともあります。南北朝内乱時代のときも主要メンバーとなって大活躍しています。つまり武士たちのあこがれの存在でした。

 おまけに海野氏の家系も良かった。
 具体的に言うと、

 清和天皇の第二皇子の孫が滋野氏(海野氏)。
 清和天皇の第六皇子の息子が源氏(源経基)。
 海野氏は、源氏より血筋が良いのです。

 そのうえ滋野氏初代は、平家の三代目と親友で、共同で平将門と戦っています。平将門は、平家二代目を殺した犯人で、その敵討ちで勝利したのが三代目平家の平貞盛。その親友である滋野初代であり、源氏の元祖となる源経基。

 さらに海野氏六代目は
 前九年の役(1051年から1062年)
 後三年の役(1083年から1087年)
 二つの大戦でも活躍しています。

 ただし、この戦乱では、多くの人たちが死に、国土が荒廃しています。
 その結果、戦争はこりごりだと思った人が二人います。

 一人は藤原清衡です。
 藤原清衡は、荒廃した国土を復興しこの世の浄土「理想郷」を創ろうとしました。
 それが奥州平泉です。

 そして、もう一人が海野氏。
 修験者となって嬬恋村に開拓に行きた海野氏で、
 後に下屋将監と改名します。

参考サイト http://ss-rekishi.seesaa.net/article/190055128.html

 この子孫が、鎌原氏をはじめとする吾妻郡の武士団です。

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 それはともかく、海野氏八代目は、保元の乱(1156年)で大活躍して、吾妻、佐久、松本市まで領地が拡大します。

 海野氏の領地は、皇室の牧場(牧)がいくつもあったところです。そこの民謡の信濃追分節は、モンゴル民謡と同じなので有名です。古代韃靼人が牧場の管理をしていた名残だと言われています。それを使っていたのが海野氏なので、信濃の騎馬武者といえば海野氏と言われていました。なので木曽義仲が旗挙げしたときに、真っ先に家臣として召し抱えたのも海野氏です。

 義仲は海野氏の騎馬軍団を従え父の故郷・群馬県吉井町を制圧しますが、平家が攻めてきたので信濃への退却して破ります。また源頼朝と和睦して、義仲は嫡子義高を頼朝の長女大姫と結婚させ、人質として鎌倉に送ります。そのお供に海野氏十代が付き添います。

 結局、義仲は義経軍に滅ぼされるわけですが、人質となった義仲の嫡子義高を海野十代目が、十一歳という若さで身代わりになって逃がすわけです。その忠義を頼朝に感心されて、十代目は頼朝に仕えるようになりますが、この十代目が、吾妻鏡によくでてくるスターなんですね。つまり海野氏は、当時の武士団にとってビックネームだったわけです。

 ここが重要なんです。

 これが分からないと、真田昌幸が名胡桃より西にある吾妻郡にこだわる理由がわからないと思います。もし、ここを真田が手放したら、海野一族同士が戦うことになる。それは避けたいし、街道の権益も守りたい。名胡桃までの領地を確保できれば街道の権益が守れるからです。当然のことながら祖父の墓も守れます。もちろん祖父の墓があることは、本当のことだから裁定者の秀吉にも大義名分として通じたはずです。ここに嘘はないはずです。私がシナリオライターだったら、そこを重点的に書きます。

しかし真田丸では、名胡桃の重要性を放置して、沼田城にこだわっているんですよね。あれでは、視聴者に説得力がないし、真田昌幸が単に腹黒い男という単純な視点で終わってしまいますから、ここに群馬県側から見た私の私見を書いておきます。


posted by k at 10:29| 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2011年03月11日

南木佳士さんの御実家と『阿弥陀堂』 北軽井沢ブルーベリーYGHマネージャーのミステリーツアー

南木佳士さんの御実家

『阿弥陀堂だより』という、南木佳士の小説を原作とした日本映画がありました。パニック障害を病んだ妻を連れて帰郷した夫と阿弥陀堂を守る老女との交流を描いた話です。北林谷栄が第26回日本アカデミー賞助演女優賞を、小西真奈美が新人俳優賞を受賞、第56回ヴェネチア映画祭でも「緑の獅子賞」を受賞するなど、世界中で高い評価を受けた映画です。

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良い映画でしたが、あれ、嬬恋村が舞台なんです。
長野県ではない。
まず、原作者の南木佳士さん、
この人は嬬恋村生まれなんですよ!
南木佳士は、ペンネームですが、

『南木』

というのは、北軽井沢ブルーベリーYGHのあるあたりのことです。

つまり『阿弥陀堂だより』という話は、群馬県嬬恋村三原の話なのです。
万座鹿沢口駅から徒歩7分のところが舞台です。


これが原作者の南木さんの生家です。

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 『阿弥陀堂だより』は、映画より原作の方が面白いです。嬬恋村・軽井沢・佐久がジャンジャンでてくる。たまに秋田の話も出ますが、それは、秋田大学の学生だったからですね。つまり南木さんの書くものは、みんな私小説なんですよ。そしてほとんど実話。だから迫力あります。そして、この話は、嬬恋村を知らないと、知ってるとでは大きく違ってきます。

 嬬恋村では、自殺が多い。
 珍しくない。
 鬱も多いです。

 近親結婚が多かったからと言われています。そういう村の状態を知っていると映画が倍面白くなります。本家の阿弥陀堂も知っていると映画が面白くなります。作者は、佐久の病院でパニック障害になり鬱になったんですよ。佐久病院は長野県の田舎ですが、その田舎で鬱になった。長野で鬱になった。それを癒したのは、軽井沢病院に来院してくる故郷嬬恋村の素朴な村人だったのです。


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南木佳士さんについて

南木佳士は昭和二十六年(一九五一年)十月に吾妻郡嬬恋村に生まれました。本名は霜田哲夫。父重義は入り婿で鉱山会社に勤め、母つぎは群馬女子師範を出て、地元で小学校の教師をしていました。南木の四歳のとき母が結核で死亡したため、その後は祖母に育てられました。

 少年時代は、嬬恋村の三原の山あいの捨城庵のそばにある小学校に通っていました。父は、バスで二時間もかかる小串鉱山の社宅にいて週末にしか帰って来ませんでしたから、ふだんは祖母と姉の三人で生活していました。父からのわずかな仕送りで暮らしていたので貧しかったようです。

 しかし父が東京へ転勤しましたので、中学から東京に行き、都立高校から秋田大学医学部をへて長野県佐久市にある佐久総合病院の医師になり、現在もその地に住み内科医長を勤めながら、小説を書いています。

 そこから一時期、軽井沢の町立病院に派遣されたことがありました。「軽井沢は生まれ育った群馬の山村のとなりの町である」。そこの風物や縁戚にあたる人間たちに親しんでいるうちに生まれたのが、第百回芥川賞の『ダイアモンドダスト』平成元年(一九八九年)でした。

『阿弥陀堂だより』という、南木佳士の小説を原作とした日本映画がありました。あれは、嬬恋村が舞台なんです。つまり『阿弥陀堂だより』は、群馬県嬬恋村三原の話なのです。万座鹿沢口駅から徒歩7分のところが舞台です。

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まず、原作者の南木佳士さん、この人は嬬恋村生まれなんですよ!

で、これが本物の阿弥陀堂!
つまり、作者の遊び場であったわけでです。
もちろん作者の祖母も、ここで眠っています。


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 映画では都会に疲れて鬱になって田舎に癒される話なんですが、実は全く逆なんです。医学部を卒業し、信州の田舎にある佐久病院に努めて、あまりにも多く老人が死んでいくために、鬱になりかかる。それで、原作者は軽井沢病院に出向し、そこで癒されるんです。

 そもそも話しが逆なのです!

 実は、軽井沢と嬬恋村は、繋がっていて、軽井沢には、原作者の友人知人がいっぱいいた。旧軽井沢は、昔は貧しい村で、炭焼きでしか生活が出来ないところで、その旧軽井沢の炭焼きばあさんが、作者の生家(嬬恋村三原)の近所に住んでいたりする。だから、原作者の南木さんは、軽井沢に偏見をもたなかった。だから佐久病院からの出向に応じたんですね。

 しかし、佐久病院の地域医療に対する理想に燃える医師団たちは、
軽井沢に対して偏見に満ちており
「お金持ちの診療なんかできるかよ!」
と軽井沢病院の面倒なんかみないという剣幕だった。


 しかし、嬬恋村出身であり、昔の軽井沢をよく知っていた原作者の南木さんは、進んで軽井沢病院への出向を希望します。そこで、嬬恋村の昔の知り合いに、よく出会うんです。

 ただ、佐久病院から出向してきた若い同僚の医師は、女子高校生の膣から抜けなくなったコンドームの取り出しや、都会から来た自殺未遂の若い女性の治療なんかに嫌気がさして、
「軽井沢なんか嫌だ。佐久病院に帰って地域医療を真面目にやりたい」
と怒ったそうです。


 そういう同僚を尻目に、作者は、軽井沢病院の裏の小川で、イワナ釣りやカジカ釣りを楽しみ、自殺未遂の若い女性に、君が死のうとした旧軽井沢の場所は、貧しい炭焼きの老婆が一生懸命生活した所なんだよ。その老婆と私は子供の頃から知ってるんだと言い聞かせたりするのです。

 『阿弥陀堂だより』の原点は、こんな体験の風景の中にあったんですね。そういう背景を知ると映画は、もっと面白くなります。佐久病院・軽井沢・嬬恋村。これを理解して、もういちど『阿弥陀堂だより』をみると面白さが倍増すると思います。


 原作者は、決して都会に疲れたのではない。
 田舎の病院に疲れたのです。
 で、軽井沢病院でリハビリをした。
 このへんの事情は、現地を知らないとよくわからないかもしれない。
 このへんの解説があれば

安易に都会vs田舎の視点では
すまされないモノが見えてくる。




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posted by k at 12:08| 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

馬庭念流剣術発祥の地 北軽井沢ブルーベリーYGHマネージャーのミステリーツアー

馬庭念流剣術発祥の地(長野原町応桑小宿)

http://homepage2.nifty.com/blue_berry/00-top-57.htm

 念阿弥慈恩(ねんあみ じおん)は、日本の南北朝時代から室町時代にかけての剣客であり、禅僧です。奥州相馬(福島県南相馬市)の生まれで、7歳のときに相州藤沢の遊行上人に弟子入りし、念阿弥と名付けられ、父の敵討ちをめざして剣の修行を積み、10歳で上京、鞍馬山での修行中、異怪の人に出会って妙術を授かったといわれています。さらに16歳のとき、鎌倉で寿福寺の神僧、栄祐から秘伝を授かり、1368年、筑紫・安楽寺での修行において剣の奥義を感得しました。

 念阿弥は還俗して相馬四郎 義元と名乗り、奥州に帰郷して首尾良く父の仇敵を討つと再び禅門に入り、名を慈恩と改め、諸国を巡って剣法を教え、1408年、信州波合村に長福寺を建立、念大和尚と称しました。

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 さて、木曽義仲(鎌倉倒幕武将)四天王に樋口次郎兼光がいます。兼光の母は木曽義仲の乳母、巴御前は兼光の妹、という姻戚で、信州伊那郡樋口村に住んだことから樋口姓を名乗っりました。木曽義仲討死後、樋口兼光は捕らえられて京で斬首されますが、一族は樋口村で生き延びました。

 兼光から11代の樋口太郎兼重は、伊那郡波合村に住み着いた念大和尚の高弟となり、念流の兵法を修めます。後に念流は家伝となり、兼光念流と称しています。兼重の子孫は念流を代々受け継いでいきますが、十三代高重が上野国吾妻郡小宿村(現長野原町応桑小宿)に住居を移します。これが、この地です。

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 つまり、ここ(長野原)は、真田とは別傾倒の武術が定着したわけで、長野原町は、嬬恋村の真田流古武道(あるいは忍術)とは、違うスタイルが定着しました。いわゆる馬庭念流の元祖の誕生です。ただし、真田軍団の進出によって、樋口氏は上州多胡郡馬庭村(現吉井町馬庭)に再転居。馬庭の念流なので馬庭年流といわれるようになりました。

 馬庭念流は専守防衛の剣術で、腰を思いきり引いて、重心を後ろの足に置くと言う他の流儀には見られない防御には極めて有利な構えを取り、相手の攻撃を外す事に専念し、攻める時には接近してひたすら面のみを狙うという特殊なものです。示現流の逆ですね。そして念流は無意味に殺生する他流試合を嫌います。だから、かなり腕前を持ちながら、代々の当主は馬庭を出ることがなかったようです。

 念流の門弟には武家の子弟もいたが、多くは農民、町民であり、念流は彼らの自衛の剣として民間に普及していったものでした。その剣技はあくまで庶民の自衛の剣であり、立身出世や殺傷の道具とすることを戒めるものでした。

 よーするに武士が戦場で戦うための剣ではないということです。自分から敵を求めるということもしません。あくまでも庶民が不意討ちされたときに身を守るための剣です。ただし、背水の陣で守るということではありません。相手を完璧に倒せるだけの力があってはじめて守りは可能になります。また、相手を平伏させ、相手を傷つけず自分も助かるということも可能になるわけです。

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 馬庭念流の特色は、武芸を仕官の為には使わず、爪を隠した鷹のような存在になったところです。しかし、著名な門人が多く、赤穂浪士中随一の剣客と言われた堀部安兵衛(中山安兵衛)などがいます。彼は高田の馬場で叔父の敵討ちで十八人切りをして、これを知った赤穂浅野家家臣堀部弥兵衛が安兵衛との養子縁組を望みました。はじめ安兵衛は、中山家を潰すわけにはいかないと断っていましたが、浅野内匠頭に「堀部の家名は無くなるが、それでも中山安兵衛を婿養子に迎えたい」旨を言上しました。これに感動した浅野内匠頭は、中山姓のままで養子縁組し
 てもよいという異例の許可を出した。

 これを聞いてさすがの安兵衛もついに折れ、中山姓のままという条件で堀部家の婿養子に入ることを決める。7月7日(8月27日)、弥兵衛の娘ほりと結婚して、堀部弥兵衛の婿養子、また浅野家家臣に列した。元禄10年(1697年)に弥兵衛が隠居し、安兵衛が家督相続。このとき、安兵衛は先の約束に基づいて中山姓のままでもいいはずであったが、堀部姓に変えています。

 しかし安兵衛は浅野家中では新参(外様の家臣)に分類されました。堀部家は譜代の臣下であるはずなので「堀部家の養子」としてはおかしい分類。やはり異例の養子入りであるから安兵衛は弥兵衛の堀部家とは事実上別家扱いだったことがわかります。

 ただし赤穂藩での安兵衛は、200石の禄を受け、御使番、馬廻役(馬廻りは役職というより武士の階級。騎乗できる武士のこと。騎乗できない武士中小姓の上位。)となりました。

 そして元禄15年12月14日、大石内蔵助・堀部安兵衛ら赤穂浪士47士は本所松阪の吉良上野介の屋敷へ討ち入り。安兵衛は裏門から突入し、大太刀を持って奮戦。1時間あまりの戦いの末に赤穂浪士は吉良上野介を討ち取り、その本懐を遂げました。そして松平隠岐守屋敷にて同家家臣荒川十大夫の介錯により切腹した。

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あと滝沢馬琴や、新撰組の沼尻小文吾も馬庭念流の達人ですよ。
posted by k at 12:06| 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする