2011年03月11日

南木佳士さんの御実家と『阿弥陀堂』 北軽井沢ブルーベリーYGHマネージャーのミステリーツアー

南木佳士さんの御実家

『阿弥陀堂だより』という、南木佳士の小説を原作とした日本映画がありました。パニック障害を病んだ妻を連れて帰郷した夫と阿弥陀堂を守る老女との交流を描いた話です。北林谷栄が第26回日本アカデミー賞助演女優賞を、小西真奈美が新人俳優賞を受賞、第56回ヴェネチア映画祭でも「緑の獅子賞」を受賞するなど、世界中で高い評価を受けた映画です。

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良い映画でしたが、あれ、嬬恋村が舞台なんです。
長野県ではない。
まず、原作者の南木佳士さん、
この人は嬬恋村生まれなんですよ!
南木佳士は、ペンネームですが、

『南木』

というのは、北軽井沢ブルーベリーYGHのあるあたりのことです。

つまり『阿弥陀堂だより』という話は、群馬県嬬恋村三原の話なのです。
万座鹿沢口駅から徒歩7分のところが舞台です。


これが原作者の南木さんの生家です。

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 『阿弥陀堂だより』は、映画より原作の方が面白いです。嬬恋村・軽井沢・佐久がジャンジャンでてくる。たまに秋田の話も出ますが、それは、秋田大学の学生だったからですね。つまり南木さんの書くものは、みんな私小説なんですよ。そしてほとんど実話。だから迫力あります。そして、この話は、嬬恋村を知らないと、知ってるとでは大きく違ってきます。

 嬬恋村では、自殺が多い。
 珍しくない。
 鬱も多いです。

 近親結婚が多かったからと言われています。そういう村の状態を知っていると映画が倍面白くなります。本家の阿弥陀堂も知っていると映画が面白くなります。作者は、佐久の病院でパニック障害になり鬱になったんですよ。佐久病院は長野県の田舎ですが、その田舎で鬱になった。長野で鬱になった。それを癒したのは、軽井沢病院に来院してくる故郷嬬恋村の素朴な村人だったのです。


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南木佳士さんについて

南木佳士は昭和二十六年(一九五一年)十月に吾妻郡嬬恋村に生まれました。本名は霜田哲夫。父重義は入り婿で鉱山会社に勤め、母つぎは群馬女子師範を出て、地元で小学校の教師をしていました。南木の四歳のとき母が結核で死亡したため、その後は祖母に育てられました。

 少年時代は、嬬恋村の三原の山あいの捨城庵のそばにある小学校に通っていました。父は、バスで二時間もかかる小串鉱山の社宅にいて週末にしか帰って来ませんでしたから、ふだんは祖母と姉の三人で生活していました。父からのわずかな仕送りで暮らしていたので貧しかったようです。

 しかし父が東京へ転勤しましたので、中学から東京に行き、都立高校から秋田大学医学部をへて長野県佐久市にある佐久総合病院の医師になり、現在もその地に住み内科医長を勤めながら、小説を書いています。

 そこから一時期、軽井沢の町立病院に派遣されたことがありました。「軽井沢は生まれ育った群馬の山村のとなりの町である」。そこの風物や縁戚にあたる人間たちに親しんでいるうちに生まれたのが、第百回芥川賞の『ダイアモンドダスト』平成元年(一九八九年)でした。

『阿弥陀堂だより』という、南木佳士の小説を原作とした日本映画がありました。あれは、嬬恋村が舞台なんです。つまり『阿弥陀堂だより』は、群馬県嬬恋村三原の話なのです。万座鹿沢口駅から徒歩7分のところが舞台です。

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まず、原作者の南木佳士さん、この人は嬬恋村生まれなんですよ!

で、これが本物の阿弥陀堂!
つまり、作者の遊び場であったわけでです。
もちろん作者の祖母も、ここで眠っています。


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 映画では都会に疲れて鬱になって田舎に癒される話なんですが、実は全く逆なんです。医学部を卒業し、信州の田舎にある佐久病院に努めて、あまりにも多く老人が死んでいくために、鬱になりかかる。それで、原作者は軽井沢病院に出向し、そこで癒されるんです。

 そもそも話しが逆なのです!

 実は、軽井沢と嬬恋村は、繋がっていて、軽井沢には、原作者の友人知人がいっぱいいた。旧軽井沢は、昔は貧しい村で、炭焼きでしか生活が出来ないところで、その旧軽井沢の炭焼きばあさんが、作者の生家(嬬恋村三原)の近所に住んでいたりする。だから、原作者の南木さんは、軽井沢に偏見をもたなかった。だから佐久病院からの出向に応じたんですね。

 しかし、佐久病院の地域医療に対する理想に燃える医師団たちは、
軽井沢に対して偏見に満ちており
「お金持ちの診療なんかできるかよ!」
と軽井沢病院の面倒なんかみないという剣幕だった。


 しかし、嬬恋村出身であり、昔の軽井沢をよく知っていた原作者の南木さんは、進んで軽井沢病院への出向を希望します。そこで、嬬恋村の昔の知り合いに、よく出会うんです。

 ただ、佐久病院から出向してきた若い同僚の医師は、女子高校生の膣から抜けなくなったコンドームの取り出しや、都会から来た自殺未遂の若い女性の治療なんかに嫌気がさして、
「軽井沢なんか嫌だ。佐久病院に帰って地域医療を真面目にやりたい」
と怒ったそうです。


 そういう同僚を尻目に、作者は、軽井沢病院の裏の小川で、イワナ釣りやカジカ釣りを楽しみ、自殺未遂の若い女性に、君が死のうとした旧軽井沢の場所は、貧しい炭焼きの老婆が一生懸命生活した所なんだよ。その老婆と私は子供の頃から知ってるんだと言い聞かせたりするのです。

 『阿弥陀堂だより』の原点は、こんな体験の風景の中にあったんですね。そういう背景を知ると映画は、もっと面白くなります。佐久病院・軽井沢・嬬恋村。これを理解して、もういちど『阿弥陀堂だより』をみると面白さが倍増すると思います。


 原作者は、決して都会に疲れたのではない。
 田舎の病院に疲れたのです。
 で、軽井沢病院でリハビリをした。
 このへんの事情は、現地を知らないとよくわからないかもしれない。
 このへんの解説があれば

安易に都会vs田舎の視点では
すまされないモノが見えてくる。




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馬庭念流剣術発祥の地 北軽井沢ブルーベリーYGHマネージャーのミステリーツアー

馬庭念流剣術発祥の地(長野原町応桑小宿)

http://homepage2.nifty.com/blue_berry/00-top-57.htm

 念阿弥慈恩(ねんあみ じおん)は、日本の南北朝時代から室町時代にかけての剣客であり、禅僧です。奥州相馬(福島県南相馬市)の生まれで、7歳のときに相州藤沢の遊行上人に弟子入りし、念阿弥と名付けられ、父の敵討ちをめざして剣の修行を積み、10歳で上京、鞍馬山での修行中、異怪の人に出会って妙術を授かったといわれています。さらに16歳のとき、鎌倉で寿福寺の神僧、栄祐から秘伝を授かり、1368年、筑紫・安楽寺での修行において剣の奥義を感得しました。

 念阿弥は還俗して相馬四郎 義元と名乗り、奥州に帰郷して首尾良く父の仇敵を討つと再び禅門に入り、名を慈恩と改め、諸国を巡って剣法を教え、1408年、信州波合村に長福寺を建立、念大和尚と称しました。

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 さて、木曽義仲(鎌倉倒幕武将)四天王に樋口次郎兼光がいます。兼光の母は木曽義仲の乳母、巴御前は兼光の妹、という姻戚で、信州伊那郡樋口村に住んだことから樋口姓を名乗っりました。木曽義仲討死後、樋口兼光は捕らえられて京で斬首されますが、一族は樋口村で生き延びました。

 兼光から11代の樋口太郎兼重は、伊那郡波合村に住み着いた念大和尚の高弟となり、念流の兵法を修めます。後に念流は家伝となり、兼光念流と称しています。兼重の子孫は念流を代々受け継いでいきますが、十三代高重が上野国吾妻郡小宿村(現長野原町応桑小宿)に住居を移します。これが、この地です。

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 つまり、ここ(長野原)は、真田とは別傾倒の武術が定着したわけで、長野原町は、嬬恋村の真田流古武道(あるいは忍術)とは、違うスタイルが定着しました。いわゆる馬庭念流の元祖の誕生です。ただし、真田軍団の進出によって、樋口氏は上州多胡郡馬庭村(現吉井町馬庭)に再転居。馬庭の念流なので馬庭年流といわれるようになりました。

 馬庭念流は専守防衛の剣術で、腰を思いきり引いて、重心を後ろの足に置くと言う他の流儀には見られない防御には極めて有利な構えを取り、相手の攻撃を外す事に専念し、攻める時には接近してひたすら面のみを狙うという特殊なものです。示現流の逆ですね。そして念流は無意味に殺生する他流試合を嫌います。だから、かなり腕前を持ちながら、代々の当主は馬庭を出ることがなかったようです。

 念流の門弟には武家の子弟もいたが、多くは農民、町民であり、念流は彼らの自衛の剣として民間に普及していったものでした。その剣技はあくまで庶民の自衛の剣であり、立身出世や殺傷の道具とすることを戒めるものでした。

 よーするに武士が戦場で戦うための剣ではないということです。自分から敵を求めるということもしません。あくまでも庶民が不意討ちされたときに身を守るための剣です。ただし、背水の陣で守るということではありません。相手を完璧に倒せるだけの力があってはじめて守りは可能になります。また、相手を平伏させ、相手を傷つけず自分も助かるということも可能になるわけです。

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 馬庭念流の特色は、武芸を仕官の為には使わず、爪を隠した鷹のような存在になったところです。しかし、著名な門人が多く、赤穂浪士中随一の剣客と言われた堀部安兵衛(中山安兵衛)などがいます。彼は高田の馬場で叔父の敵討ちで十八人切りをして、これを知った赤穂浅野家家臣堀部弥兵衛が安兵衛との養子縁組を望みました。はじめ安兵衛は、中山家を潰すわけにはいかないと断っていましたが、浅野内匠頭に「堀部の家名は無くなるが、それでも中山安兵衛を婿養子に迎えたい」旨を言上しました。これに感動した浅野内匠頭は、中山姓のままで養子縁組し
 てもよいという異例の許可を出した。

 これを聞いてさすがの安兵衛もついに折れ、中山姓のままという条件で堀部家の婿養子に入ることを決める。7月7日(8月27日)、弥兵衛の娘ほりと結婚して、堀部弥兵衛の婿養子、また浅野家家臣に列した。元禄10年(1697年)に弥兵衛が隠居し、安兵衛が家督相続。このとき、安兵衛は先の約束に基づいて中山姓のままでもいいはずであったが、堀部姓に変えています。

 しかし安兵衛は浅野家中では新参(外様の家臣)に分類されました。堀部家は譜代の臣下であるはずなので「堀部家の養子」としてはおかしい分類。やはり異例の養子入りであるから安兵衛は弥兵衛の堀部家とは事実上別家扱いだったことがわかります。

 ただし赤穂藩での安兵衛は、200石の禄を受け、御使番、馬廻役(馬廻りは役職というより武士の階級。騎乗できる武士のこと。騎乗できない武士中小姓の上位。)となりました。

 そして元禄15年12月14日、大石内蔵助・堀部安兵衛ら赤穂浪士47士は本所松阪の吉良上野介の屋敷へ討ち入り。安兵衛は裏門から突入し、大太刀を持って奮戦。1時間あまりの戦いの末に赤穂浪士は吉良上野介を討ち取り、その本懐を遂げました。そして松平隠岐守屋敷にて同家家臣荒川十大夫の介錯により切腹した。

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あと滝沢馬琴や、新撰組の沼尻小文吾も馬庭念流の達人ですよ。
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嬬恋村史と、真田一族

嬬恋村史と、真田一族。

 嬬恋村は、非常に特殊な歴史をもっています。
 修験者たちが開拓した歴史です。


 平安時代末期、一人の修験者が、嬬恋村に流れてきました。
 信州に大帝国を拡げていた、海野一族の跡取りの一人でした。
 名は、海野幸房と言います。
 兄は、海野幸家。真田一族の家祖にあたります。

 彼は、戦争に嫌気がさし、修験者となって、
 人も住んでない嬬恋村にやってきました。

 当時の嬬恋村は、1108年の天仁の噴火で壊滅して間もない頃でしたから、ほとんど人は住んでなかったようです。そこに、修験者となって、流れてきた海野一族の一人は、粗末な庵をつくり、『捨城庵』と名付けました。城を捨てて、造った粗末な小屋という意味です。刀を捨てて、修験者となって、修行を行いつつ、嬬恋村の開拓をはじめました。場所は、嬬恋村の万座鹿沢口駅のあたりです。

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 海野幸房は、名前を、下屋将監幸房と改名します。そして、子孫たちに嬬恋村を開拓させていき、広大な領地をもつにいたりますが、下屋氏は、勢力が大きくなると、次々と分村していき、譲り状を渡し、小国に分割していきます。

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 わざと巨大な帝国を造らずに、逆に小さくしていったのです。今風にいえば、地方分権に徹したわけですね。そのために、下屋本家は、戦国時代の下克上からも逃れることができました。そして、今なお嬬恋村に存在しています。嬬恋村には、千年の歴史をもつ名家が、いまでもいるのです。

 その逆をやったのが、真田氏でしたが、
 真田氏については、後日、述べましょう。

 下屋本家を造った下屋将監は、映画「阿弥陀堂だより」の阿弥陀堂あたりに、修験道の神社を造りました。そして、甲冑鎧などの武器を埋めて、『捨城庵』を建てました。そして、神社は大いに栄えるのですが、山津波で壊滅します。壊滅した後に「阿弥陀堂」が建ちます。まあ、それはいいとして、そのあたりに住む人たちは、宮崎の姓を名乗るひとが多いのですが、ご先祖様が、神社に使えていたためです。

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平安時代末期、1108年の天仁の噴火で壊滅して間もない嬬恋村に修験者となって、流れてきた海野一族がいました。下屋将監です。彼は、映画「阿弥陀堂だより」の阿弥陀堂あたりに、修験道の神社を造りました。そして、甲冑鎧などの武器を埋めて、『捨城庵』を建てました。城を捨てて粗末な家を建てたという意味です。

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 下屋氏一族は、さかんに嬬恋村を開拓します。そして、真田から嫁をもらって人口を増やします。この風習は、現在でも残っていて、嬬恋村と旧真田町は、親戚どうしみたいになっています。そのために、嬬恋村は真田と隣接している西部の政治力が強く、東部の北軽井沢側は、風に飛ばされてしまいそうに弱体です。村長も、議員も、真田側からワンサカでてきますが、北軽井沢側は政治的に沈黙したままです。

(そのへんの事情は、詳しくは、以下のページを御覧ください)
 http://kaze3.seesaa.net/article/123305890.html

 脱線しました。
 下屋氏一族のことです。

 下屋氏一族は、武器を捨て、宗教(修験道)の力をもって開墾を続けました。武器の力ではなく、信心の力で開墾を行い、天仁の噴火で壊滅した嬬恋村を見事に再生させます。そして、広大な領土をもつに至りますが、下屋氏一族には、領土的野心はこれっぽっちもなく、分村し、暖簾分けし、村々を次々と分家たちに譲り渡してしまいます。

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 暖簾分けされた中に、鎌原氏という存在があります。下屋氏一族の開祖、下屋将監の孫にあたります。この鎌原氏が、勢力を伸ばし、嬬恋村の地頭職に出世します。しかし、下屋将監直系の本家は、武力を持たず、ひたすら修験道に励んで荘園領主として平和国家を作っていました。

 しかし、平和国家なるものは、自分の都合だけでは成立しません。武器無き民を攻め掠めようとする侵略者たちは、かならず現れます。それに対抗したのが鎌原氏でした。

 北軽井沢ブルーベリーYGHの住所は、嬬恋村鎌原1506-12ですが、これは鎌原氏の領土範囲だったことを示します。鎌原観音堂も、鎌原氏ゆかりの寺であったはずです。そして鎌原氏が、武力で他国の侵略を防ぐわけですが、そういう役割を人間を鎌倉時代では、「地頭」と言ったわけです。

 こうして、荘園領主の下屋氏一族と、地頭職にある鎌原氏の2大勢力が成立します。では、下屋氏一族と鎌原氏は、その後、どのような運命になっていったのでしょうか?


 武器を捨てて修験道で開拓していった荘園領主の下屋氏一族と、地頭職にある鎌原氏の2大勢力が成立します。では、下屋氏一族と鎌原氏は、その後、どのような運命になっていったのでしょうか?

 下屋氏一族は、武力ではなく、修験道という宗教の力をもって民を治めました。この方法は、武力をもって侵略するより、はるかに効率が良かったらしく、アッという間に北部群馬県を制圧していきました。これは昔、ソ連がマルクス主義を抱えて、アッという間に世界中を制圧していったのと似ています。

 しかし、下屋氏一族は、武力をもってなかったために、同族の地頭職である鎌原氏に、領地を掠め取られます。すると、各地の地頭たちも、下屋氏一族の領地を次々と掠め取ります。その結果、嬬恋村全体が、群雄割拠の時代に入ってしまうのです。親戚同士が互いに武力で争い、下屋氏本家は、アッという間に廃れていきました。

 代わりに勢力を台頭したのが鎌原氏です。
 実は、先日、その鎌原氏ゆかりの地、鎌原城に行ってきました。
 これが鎌原城の跡地です。

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 造りは、小諸城に似ています。
 三ノ丸追手門付近です。

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 この城は、長らく調査も、文化財保護もなされていませんでした。
 嬬恋村は、そういう事に全く興味がありませんでした。
 あと地元民たちの鎌原氏への憎しみもありました。
 その理由は、後で述べます。

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 最近になって、鎌原氏の後子孫が、個人的に金を出して碑を建設。
 自治体は、全く関与していません。
 真田六文銭があります。
 鎌原氏は真田一族なのです

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ここに鎌原氏の先祖代々の墓が1つだけあります。

しかも1つだけ。
先祖代々の墓が1つだけ。
これには、訳があります。

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鎌原氏には、敵が多かったために、墓が暴かれるのを恐れて、長い間、墓を作れなかったのですね。どういう事かといいますと、真田氏が群馬県に攻めてきたときに、その片棒を担いで、一緒に攻めていったのが鎌原氏であり、他の下屋氏一族を次々と滅ぼしていったために、多くの下屋氏一族の恨みをかっていて、墓を作れなかったのですね。

で、ここに、やっと墓ができたのが、
昭和45年、つまり1970年なのです。
それまで墓を作れなかった。
だから、先祖代々の墓と言っても、この墓は新しいのです。

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墓には、歴代の鎌原氏の戒名が彫られています。
1975年まで墓を作れなかった鎌原氏。
敵が多く土地の人に嫌われていた鎌原氏。

いったい、どうして、これほど嫌われていたのでしょうか?
真田氏と嬬恋村を攻めたためなのでしょうか?
それだけで、墓を作れないほど嫌われるものでしょうか?





(長野原町役場見学ツアー2009/11/30)
やんばダムで有名になった長野原町の
役場見学ツアーに行ってきました。
これが役場です。

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意外かもしれませんが、
こんなに小さな建物です。
ペンションに毛の生えたくらいの小ささです。

しかも、木造です。

とてもダム利権に潤っている町の役場ではありません。
疑っている人たちは、一度、この役場を見に来るといいです。

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そして、役場の隣にお寺があります。
雲林寺です。

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 雲林寺は、弘長3年(1263年)、臨済宗妙心寺派に属する龍幡和尚が創建しています。約300年間、非常に栄えたといいますが、大火災で亡失してしまいました。そして永禄2年(1559)3月15日、海野幸光が開基となって現所在地に伽藍を再建しました。海野幸光は、西吾妻地方の吾妻川左岸に勢力を持つ有力土豪でしたが、天正9年(1581年)、真田幸村の父、真田昌幸に滅ぼされてしまいます。

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 もうお解りかと思いますが、
 海野氏が再建した寺ということは、
 つまり真田一族の本家筋が海野氏なんです。

 嬬恋村だけでなく、長野原町も、海野氏。
 つまり真田一族の末裔が支配する町なんです。

 具体的に言うと、桜井一族。
 人口5000人のうちの2500人が、
 桜井一族に関係していると言われています。
 吾妻酒造しかり、ホテル桜井しかり、
 歴代町長のほとんどが、桜井さんか、田村さん。
 つまり桜井一族系統なんです。

 それは、ともかく明治22年に村が統合されて長野原町ができた際、当時は役場庁舎が無かったので、この雲林寺を借用したそうです。初代の町長には桜井伝三郎氏が就任し、旧役場、学校建築等幾多の功績を残しました。建物をみてください。役場のような造りになっていますよね。

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 ここには、宝きょう印塔という、塔があります。これは、お経を写して塔に納めて供養すると極楽に生まれ変わる、と信じられていた塔で、平安時代に中国から伝わったものです。

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 武器を捨てて修験道で開拓していった荘園領主の下屋氏一族と、地頭職にある鎌原氏の2大勢力が成立します。下屋氏一族は、武力ではなく、修験道という宗教の力をもって民を治めました。しかし、下屋氏一族は、武力をもってなかったために、同族の地頭職である鎌原氏に、領地を掠め取られます。実は、先日、その鎌原氏ゆかりの地、鎌原城に行ってきました。これが鎌原城の跡地です。

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 ここに鎌原氏の先祖代々の墓が1つだけあります。鎌原氏には、敵が多かったために、墓が暴かれるのを恐れて、長い間、墓を作れなかったのですね。で、ここに、やっと墓ができたのが、昭和45年、つまり1970年なのです。それまで墓を作れなかった。いったい、どうして、これほど嫌われていたのでしょうか?

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 その前に歴史のおさらいをしておきます。

1.真田氏とは何か?

 真田氏とは、海野氏の分家にあたります。
 具体的に言うと海野棟綱の息子が真田幸隆です。
 つまり、真田氏とは、海野氏のことです。
 有名な六文銭の旗印も、もともと海野氏の旗印。
 真田幸隆の息子が、真田昌幸。孫が真田幸村。
 図にすると、こうなります。

 海野棟綱−真田幸隆−真田昌幸(徳川軍を破る)−真田幸村



2.海野棟綱と真田幸隆とは?

 海野棟綱と真田幸隆は、親子です。もともとは、上田市のあたりで勢力をもっていましたが、1541年、武田信虎と戦って大敗し、嬬恋村に逃げてきました。
 嬬恋村には、親戚の下屋氏一族がいたからです。下屋氏一族も、もともと海野氏でした。その下屋氏一族の中の、羽尾幸世をたよって、海野棟綱と真田幸隆は逃げてきました。海野棟綱は49歳。真田幸隆は28歳の時です。



3.なぜ、海野棟綱と真田幸隆は、羽尾幸世をたよって逃げてきたのか?

 実は真田幸隆は、4年前の1537年に羽尾幸世の娘と結婚していたのです(『加沢記』による)。その縁で、羽尾幸世をたよって逃げてきたのです。ちなみに、羽尾家の旗印も六文銭です。真田幸隆にとって羽尾幸世は義理の父でしたが、羽尾幸世も真田幸隆を本当の息子のように可愛がったようです。



4.羽尾氏とは?

 羽尾氏は、もともと真田氏と同じく海野氏でしたが、この頃は、上杉謙信についていました。海野棟綱は、上杉謙信の力をもって旧領を取り戻そうとしますが、息子の真田幸隆は、逆に武田軍団につこうとします。そして、親子は別れ別れとなります。海野棟綱は、羽尾氏とともに上杉謙信の軍団に入り、真田幸隆は、羽尾家から出て行きます。そして、武田晴信(信玄)が父・信虎を国外追放して家督を継いだのを契機に武田家に仕官し、旧領を回復していくのです。



5.旧領を回復した真田幸隆のその後は?

 真田幸隆のその後は、武田軍団の先鋒として、嬬恋村に入ってきました。当時の嬬恋村の豪族たちは、上杉謙信についていました。しかし、真っ先に裏切って、真田幸隆の配下に入ったのが、鎌原氏でした。以後、鎌原氏は武田氏を後楯として、羽尾氏と戦います。真田軍団は、恩人でもあり、義理の父でもある羽尾氏を攻撃したのです。そのとき、戦場となったのが、この長野原城です。


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長野原城は、真田氏が造りました。
これは瑠璃光堂。
城の入り口にあります。

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城には、掘や土塁が残されています。
真田の砥石城の造りに似ています。
細長い稜線上に土塁が築かれています。

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これが本丸。建物はありません。

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 1563年5月、信玄は長野原城の守りを固めさせています。当時、長野原城は、真田幸隆の舎弟、常田新六郎隆永が守っていました。そこに上杉謙信の配下、岩櫃城主、斉藤憲広が長野原城攻略に動きました。

 羽根尾城の城主、海野幸光・輝幸兄弟に500騎を、甥の斉藤弥三郎には200騎を与え、また白井城主の白井長尾氏にも援軍を請い、真田勢を攻めました。そして真田幸隆は、敗退します。

 やはり上杉軍は強いのです。
 まともに戦えば武田軍団には、勝ち目がない。
 しかも上杉軍は、利でうごかない。
 義で動くので、始末に負えない。

 そこで、真田氏は、まともに戦わないことにしました。
 もともと同族であったので、血縁を利用して裏切りをさそいます。
 内部からの寝返りによって攻めようとします。
 これが大成功します。


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 こうして真田軍の戦法が確立し、忍者などの工作員を動員する独特な破壊工作を得意としていくようになります。馬鹿正直な上杉謙信の軍団たちは、これに翻弄され、真田軍団は群馬県を次々と侵略していきます。武田信玄が川中島で、上杉軍団に手こずっているにもかかわらず、真田軍団は上杉軍に勝利していくのです。

 恩人であり、義理の父さえ平気で攻撃するするのが真田軍団でした。しかも裏切りを得意としている。このへんの事は、大河ドラマには絶対に出てこないエピソードでしょう。実は、この真田軍団の慣習が、嬬恋村に微妙に残り、時代が下って幕末に日本史を変えるほどの大事件に発展していくのですが、それについては、後日のべることにしましょう。

 話は、変わりますが、日本ユースホステル協会を立ち上げた横山祐吉氏は、真田軍団の末裔です。そして、日本恐妻家協会を設立し、しかも群馬の婦人団体の抗議によって、あっけなく解散してしまったのも横山祐吉氏たちでした。そして、その真田のゆかりの地、嬬恋村で、私はユースホステルを経営しつつも、日本愛妻家協会聖地委員会の広報委員長をやっています。これも何かの縁かもしれません。
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