嬬恋村は、非常に特殊な歴史をもっています。
修験者たちが開拓した歴史です。
平安時代末期、一人の修験者が、嬬恋村に流れてきました。
信州に大帝国を拡げていた、海野一族の跡取りの一人でした。
名は、海野幸房と言います。
兄は、海野幸家。真田一族の家祖にあたります。
彼は、戦争に嫌気がさし、修験者となって、
人も住んでない嬬恋村にやってきました。
当時の嬬恋村は、1108年の天仁の噴火で壊滅して間もない頃でしたから、ほとんど人は住んでなかったようです。そこに、修験者となって、流れてきた海野一族の一人は、粗末な庵をつくり、『捨城庵』と名付けました。城を捨てて、造った粗末な小屋という意味です。刀を捨てて、修験者となって、修行を行いつつ、嬬恋村の開拓をはじめました。場所は、嬬恋村の万座鹿沢口駅のあたりです。
海野幸房は、名前を、下屋将監幸房と改名します。そして、子孫たちに嬬恋村を開拓させていき、広大な領地をもつにいたりますが、下屋氏は、勢力が大きくなると、次々と分村していき、譲り状を渡し、小国に分割していきます。

わざと巨大な帝国を造らずに、逆に小さくしていったのです。今風にいえば、地方分権に徹したわけですね。そのために、下屋本家は、戦国時代の下克上からも逃れることができました。そして、今なお嬬恋村に存在しています。嬬恋村には、千年の歴史をもつ名家が、いまでもいるのです。
その逆をやったのが、真田氏でしたが、
真田氏については、後日、述べましょう。
下屋本家を造った下屋将監は、映画「阿弥陀堂だより」の阿弥陀堂あたりに、修験道の神社を造りました。そして、甲冑鎧などの武器を埋めて、『捨城庵』を建てました。そして、神社は大いに栄えるのですが、山津波で壊滅します。壊滅した後に「阿弥陀堂」が建ちます。まあ、それはいいとして、そのあたりに住む人たちは、宮崎の姓を名乗るひとが多いのですが、ご先祖様が、神社に使えていたためです。

平安時代末期、1108年の天仁の噴火で壊滅して間もない嬬恋村に修験者となって、流れてきた海野一族がいました。下屋将監です。彼は、映画「阿弥陀堂だより」の阿弥陀堂あたりに、修験道の神社を造りました。そして、甲冑鎧などの武器を埋めて、『捨城庵』を建てました。城を捨てて粗末な家を建てたという意味です。
下屋氏一族は、さかんに嬬恋村を開拓します。そして、真田から嫁をもらって人口を増やします。この風習は、現在でも残っていて、嬬恋村と旧真田町は、親戚どうしみたいになっています。そのために、嬬恋村は真田と隣接している西部の政治力が強く、東部の北軽井沢側は、風に飛ばされてしまいそうに弱体です。村長も、議員も、真田側からワンサカでてきますが、北軽井沢側は政治的に沈黙したままです。
(そのへんの事情は、詳しくは、以下のページを御覧ください)
http://kaze3.seesaa.net/article/123305890.html
脱線しました。
下屋氏一族のことです。
下屋氏一族は、武器を捨て、宗教(修験道)の力をもって開墾を続けました。武器の力ではなく、信心の力で開墾を行い、天仁の噴火で壊滅した嬬恋村を見事に再生させます。そして、広大な領土をもつに至りますが、下屋氏一族には、領土的野心はこれっぽっちもなく、分村し、暖簾分けし、村々を次々と分家たちに譲り渡してしまいます。
暖簾分けされた中に、鎌原氏という存在があります。下屋氏一族の開祖、下屋将監の孫にあたります。この鎌原氏が、勢力を伸ばし、嬬恋村の地頭職に出世します。しかし、下屋将監直系の本家は、武力を持たず、ひたすら修験道に励んで荘園領主として平和国家を作っていました。
しかし、平和国家なるものは、自分の都合だけでは成立しません。武器無き民を攻め掠めようとする侵略者たちは、かならず現れます。それに対抗したのが鎌原氏でした。
北軽井沢ブルーベリーYGHの住所は、嬬恋村鎌原1506-12ですが、これは鎌原氏の領土範囲だったことを示します。鎌原観音堂も、鎌原氏ゆかりの寺であったはずです。そして鎌原氏が、武力で他国の侵略を防ぐわけですが、そういう役割を人間を鎌倉時代では、「地頭」と言ったわけです。
こうして、荘園領主の下屋氏一族と、地頭職にある鎌原氏の2大勢力が成立します。では、下屋氏一族と鎌原氏は、その後、どのような運命になっていったのでしょうか?
武器を捨てて修験道で開拓していった荘園領主の下屋氏一族と、地頭職にある鎌原氏の2大勢力が成立します。では、下屋氏一族と鎌原氏は、その後、どのような運命になっていったのでしょうか?
下屋氏一族は、武力ではなく、修験道という宗教の力をもって民を治めました。この方法は、武力をもって侵略するより、はるかに効率が良かったらしく、アッという間に北部群馬県を制圧していきました。これは昔、ソ連がマルクス主義を抱えて、アッという間に世界中を制圧していったのと似ています。
しかし、下屋氏一族は、武力をもってなかったために、同族の地頭職である鎌原氏に、領地を掠め取られます。すると、各地の地頭たちも、下屋氏一族の領地を次々と掠め取ります。その結果、嬬恋村全体が、群雄割拠の時代に入ってしまうのです。親戚同士が互いに武力で争い、下屋氏本家は、アッという間に廃れていきました。
代わりに勢力を台頭したのが鎌原氏です。
実は、先日、その鎌原氏ゆかりの地、鎌原城に行ってきました。
これが鎌原城の跡地です。
造りは、小諸城に似ています。
三ノ丸追手門付近です。
この城は、長らく調査も、文化財保護もなされていませんでした。
嬬恋村は、そういう事に全く興味がありませんでした。
あと地元民たちの鎌原氏への憎しみもありました。
その理由は、後で述べます。
最近になって、鎌原氏の後子孫が、個人的に金を出して碑を建設。
自治体は、全く関与していません。
真田六文銭があります。
鎌原氏は真田一族なのです
ここに鎌原氏の先祖代々の墓が1つだけあります。
しかも1つだけ。
先祖代々の墓が1つだけ。
これには、訳があります。
鎌原氏には、敵が多かったために、墓が暴かれるのを恐れて、長い間、墓を作れなかったのですね。どういう事かといいますと、真田氏が群馬県に攻めてきたときに、その片棒を担いで、一緒に攻めていったのが鎌原氏であり、他の下屋氏一族を次々と滅ぼしていったために、多くの下屋氏一族の恨みをかっていて、墓を作れなかったのですね。
で、ここに、やっと墓ができたのが、
昭和45年、つまり1970年なのです。
それまで墓を作れなかった。
だから、先祖代々の墓と言っても、この墓は新しいのです。
墓には、歴代の鎌原氏の戒名が彫られています。
1975年まで墓を作れなかった鎌原氏。
敵が多く土地の人に嫌われていた鎌原氏。
いったい、どうして、これほど嫌われていたのでしょうか?
真田氏と嬬恋村を攻めたためなのでしょうか?
それだけで、墓を作れないほど嫌われるものでしょうか?
次回は、その謎に迫ります。