2010年11月25日

嬬恋村史と、真田一族 2

嬬恋村史と、真田一族 2
(長野原町役場・長野原城見学ツアー2009/11/30)

やんばダムで有名になった長野原町の
役場見学ツアーに行ってきました。
これが役場です。

nagan-01.JPG

意外かもしれませんが、
こんなに小さな建物です。
ペンションに毛の生えたくらいの小ささです。

しかも、木造です。

とてもダム利権に潤っている町の役場ではありません。
疑っている人たちは、一度、この役場を見に来るといいです。

nagan-02.JPG

そして、役場の隣にお寺があります。
雲林寺です。

nagan-03.JPG

 雲林寺は、弘長3年(1263年)、臨済宗妙心寺派に属する龍幡和尚が創建しています。約300年間、非常に栄えたといいますが、大火災で亡失してしまいました。そして永禄2年(1559)3月15日、海野幸光が開基となって現所在地に伽藍を再建しました。海野幸光は、西吾妻地方の吾妻川左岸に勢力を持つ有力土豪でしたが、天正9年(1581年)、真田幸村の父、真田昌幸に滅ぼされてしまいます。

nagan-04.JPG

 もうお解りかと思いますが、
 海野氏が再建した寺ということは、
 つまり真田一族の本家筋が海野氏なんです。

 嬬恋村だけでなく、長野原町も、海野氏。
 つまり真田一族の末裔が支配する町なんです。

 具体的に言うと、桜井一族。
 人口5000人のうちの2500人が、
 桜井一族に関係していると言われています。
 吾妻酒造しかり、ホテル桜井しかり、
 歴代町長のほとんどが、桜井さんか、田村さん。
 つまり桜井一族系統なんです。

 それは、ともかく明治22年に村が統合されて長野原町ができた際、当時は役場庁舎が無かったので、この雲林寺を借用したそうです。初代の町長には桜井伝三郎氏が就任し、旧役場、学校建築等幾多の功績を残しました。建物をみてください。役場のような造りになっていますよね。

nagan-05.JPG

 ここには、宝きょう印塔という、塔があります。これは、お経を写して塔に納めて供養すると極楽に生まれ変わる、と信じられていた塔で、平安時代に中国から伝わったものです。



shi09-22.JPG


 武器を捨てて修験道で開拓していった荘園領主の下屋氏一族と、地頭職にある鎌原氏の2大勢力が成立します。下屋氏一族は、武力ではなく、修験道という宗教の力をもって民を治めました。しかし、下屋氏一族は、武力をもってなかったために、同族の地頭職である鎌原氏に、領地を掠め取られます。実は、先日、その鎌原氏ゆかりの地、鎌原城に行ってきました。これが鎌原城の跡地です。

09kan-006.JPG

 ここに鎌原氏の先祖代々の墓が1つだけあります。鎌原氏には、敵が多かったために、墓が暴かれるのを恐れて、長い間、墓を作れなかったのですね。で、ここに、やっと墓ができたのが、昭和45年、つまり1970年なのです。それまで墓を作れなかった。いったい、どうして、これほど嫌われていたのでしょうか?

09kan-004.JPG


 その前に歴史のおさらいをしておきます。

1.真田氏とは何か?

 真田氏とは、海野氏の分家にあたります。
 具体的に言うと海野棟綱の息子が真田幸隆です。
 つまり、真田氏とは、海野氏のことです。
 有名な六文銭の旗印も、もともと海野氏の旗印。
 真田幸隆の息子が、真田昌幸。孫が真田幸村。
 図にすると、こうなります。

 海野棟綱−真田幸隆−真田昌幸(徳川軍を破る)−真田幸村



2.海野棟綱と真田幸隆とは?

 海野棟綱と真田幸隆は、親子です。もともとは、上田市のあたりで勢力をもっていましたが、1541年、武田信虎と戦って大敗し、嬬恋村に逃げてきました。
 嬬恋村には、親戚の下屋氏一族がいたからです。下屋氏一族も、もともと海野氏でした。その下屋氏一族の中の、羽尾幸世をたよって、海野棟綱と真田幸隆は逃げてきました。海野棟綱は49歳。真田幸隆は28歳の時です。



3.なぜ、海野棟綱と真田幸隆は、羽尾幸世をたよって逃げてきたのか?

 実は真田幸隆は、4年前の1537年に羽尾幸世の娘と結婚していたのです(『加沢記』による)。その縁で、羽尾幸世をたよって逃げてきたのです。ちなみに、羽尾家の旗印も六文銭です。真田幸隆にとって羽尾幸世は義理の父でしたが、羽尾幸世も真田幸隆を本当の息子のように可愛がったようです。



4.羽尾氏とは?

 羽尾氏は、もともと真田氏と同じく海野氏でしたが、この頃は、上杉謙信についていました。海野棟綱は、上杉謙信の力をもって旧領を取り戻そうとしますが、息子の真田幸隆は、逆に武田軍団につこうとします。そして、親子は別れ別れとなります。海野棟綱は、羽尾氏とともに上杉謙信の軍団に入り、真田幸隆は、羽尾家から出て行きます。そして、武田晴信(信玄)が父・信虎を国外追放して家督を継いだのを契機に武田家に仕官し、旧領を回復していくのです。



5.旧領を回復した真田幸隆のその後は?

 真田幸隆のその後は、武田軍団の先鋒として、嬬恋村に入ってきました。当時の嬬恋村の豪族たちは、上杉謙信についていました。しかし、真っ先に裏切って、真田幸隆の配下に入ったのが、鎌原氏でした。以後、鎌原氏は武田氏を後楯として、羽尾氏と戦います。真田軍団は、恩人でもあり、義理の父でもある羽尾氏を攻撃したのです。そのとき、戦場となったのが、この長野原城です。


09naga-01.JPG

長野原城は、真田氏が造りました。
これは瑠璃光堂。
城の入り口にあります。

09naga-02.JPG

城には、掘や土塁が残されています。
真田の砥石城の造りに似ています。
細長い稜線上に土塁が築かれています。

09naga-03.JPG

09naga-04.JPG

09naga-05.JPG

09naga-06.JPG

これが本丸。建物はありません。

09naga-07.JPG


 1563年5月、信玄は長野原城の守りを固めさせています。当時、長野原城は、真田幸隆の舎弟、常田新六郎隆永が守っていました。そこに上杉謙信の配下、岩櫃城主、斉藤憲広が長野原城攻略に動きました。

 羽根尾城の城主、海野幸光・輝幸兄弟に500騎を、甥の斉藤弥三郎には200騎を与え、また白井城主の白井長尾氏にも援軍を請い、真田勢を攻めました。そして真田幸隆は、敗退します。

 やはり上杉軍は強いのです。
 まともに戦えば武田軍団には、勝ち目がない。
 しかも上杉軍は、利でうごかない。
 義で動くので、始末に負えない。

 そこで、真田氏は、まともに戦わないことにしました。
 もともと同族であったので、血縁を利用して裏切りをさそいます。
 内部からの寝返りによって攻めようとします。
 これが大成功します。


09naga-08.JPG

09naga-09.JPG


 こうして真田軍の戦法が確立し、忍者などの工作員を動員する独特な破壊工作を得意としていくようになります。馬鹿正直な上杉謙信の軍団たちは、これに翻弄され、真田軍団は群馬県を次々と侵略していきます。武田信玄が川中島で、上杉軍団に手こずっているにもかかわらず、真田軍団は上杉軍に勝利していくのです。

 恩人であり、義理の父さえ平気で攻撃するするのが真田軍団でした。しかも裏切りを得意としている。このへんの事は、大河ドラマには絶対に出てこないエピソードでしょう。実は、この真田軍団の慣習が、嬬恋村に微妙に残り、時代が下って幕末に日本史を変えるほどの大事件に発展していくのですが、それについては、後日のべることにしましょう。


 話は、変わりますが、日本ユースホステル協会を立ち上げた横山祐吉氏は、真田軍団の末裔です。そして、日本恐妻家協会を設立し、しかも群馬の婦人団体の抗議によって、あっけなく解散してしまったのも横山祐吉氏たちでした。そして、その真田のゆかりの地、嬬恋村で、私はユースホステルを経営しつつも、日本愛妻家協会聖地委員会の広報委員長をやっています。これも何かの縁かもしれません。
posted by k at 11:10| Comment(1) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
さる縁のある方についてググっていたら、このページに辿り着きました。けっこう真田一族もカッコイイイメージだけでなしにいろいろあったようですね。
>嬬恋村に微妙に残り、時代が下って幕末に日本史を変えるほどの大事件に発展していく
この内容が大変気になりました。
また、機会がありましたらぜひご公開をお願いします。
失礼します。
Posted by ひとまず at 2016年12月07日 20:15
コメントを書く
お名前:

メールアドレス:

ホームページアドレス:

コメント:

認証コード: [必須入力]


※画像の中の文字を半角で入力してください。
×

この広告は1年以上新しい記事の投稿がないブログに表示されております。